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  07-08-01 共産党@
 

【連載 検証・宮本顕治と日本共産党@】

「リンチ殺人」の首謀者/コミンテルン指令に従う

 

【ポイント】

 日本共産党の宮本顕治が死去したものの、彼が敷いた「暴力と独裁」の革命路線は今なお健在である。メディアは、宮本が死去しても共産党の「ソフト路線」は不変と、あたかも宮本が敷いた革命路線と現在の共産党と違っているかのように報じているが、それは大いなる錯覚である。「ソフト路線」なるものは、実際はカモフラージュ路線と言うべきものであって、革命路線は宮本時代からまったく変わっていない。宮本顕治の思想的DNAは現在の共産党を支配し続けているのである。宮本顕治と共産党の歴史と実態を再確認しておこう(本文、敬称略)。

 

【本文】

 宮本顕治が死去した3日前の7月15日、日本共産党は党創立85周年を迎え、党機関紙「しんぶん赤旗」に「党名に込められた願いと歴史」「伝統が支えるたしかな党の力」などの見出しを並べたて、相変わらず共産党無謬論を繰り広げている。これこそ宮本顕治のDNAに他ならない。

85年前の共産党創立に意義があるとすれば、それこそスターリンとソ連にとっての意義であり、日本国民にとっては百害あっても一利すら見いだせない。

そもそも「党名に込められた願い」と言うが、創立時の党名はいったい何だったのか。その正式名は「コミンテルン日本支部(日本共産党)」である。日本共産党は括弧の中に書かれたにすぎず、あくまでもコミンテルン日本支部だった。その生まれを誇るところに共産党の本質が垣間見える。

 

■スターリンの申し子だった

コミンテルンとは国際共産党のことである。1919年、レーニンが世界共産化を目指す第3インターとして設立し、日本に支部を作るために工作員を上海に派遣、莫大な資金を投入して22年に日本支部を作った。だからこそ、「コミンテルン日本支部(日本共産党)」なのである。

この生まれを宮本顕治は誇りにしてきたが、現在の共産党も同様である。04年1月に実に43年ぶりに党綱領を改訂し宮本路線から脱皮したかのように伝えられるが、その党綱領においても冒頭の第一章に「戦前の日本社会と日本共産党」の項を設け、「日本共産党はわが国の進歩と変革の伝統を受けつぎ、日本と世界の人民の解放闘争の高まりのなかで、一九二二年七月一五日、科学的社会主義を理論的な基礎とする政党として、創立された」と明記している。

ここで言う「日本と世界の人民の解放闘争の高まり」とは、ロシアにおけるボリシェヴィキ革命(1917年)と世界革命を目指すコミンテルン創設にほかならない。20年に開催されたコミンテルン第2回大会でレーニンは前衛党を柱とするコミンテルン加盟条件(21カ条)を呈示し、片山潜ら日本人がこれを受け入れ、スターリンの指導によって22年に日本支部が設立された(当時、レーニンは病床にあった)。その意味で日本共産党はスターリンの申し子と言ってよい。

 

■忠実に実行したスパイ殺害指令

むろん、設立大会(東京・渋谷区伊達町の民家で開催)に宮本顕治は参加しておらず、彼の入党は1931年のことである。だが、宮本ほどコミンテルンに忠実だった人物も稀と言ってよい。入党後は率先してその実践に当たってきたからだ。

特に32年10月に熱海事件で党幹部が次々に逮捕されて以降、宮本顕治と袴田里見(元副委員長)らが党中央の再編に当たり、その過程でリンチ事件が次々と引き起こされていったのである。

宮本らは相次ぐ幹部逮捕によって党内の「スパイ」に疑心暗鬼となり、33年5月初めに中央委員の山本正美と谷口直平が検挙されると、いよいよスパイ潜入の疑いを強めた。スパイ摘発に最も意欲的だったのは宮本で、彼は党中央「アジ、プロ」部長兼『赤旗』編集局責任者として『赤旗』にスパイ摘発・断罪の指令を書き続け、これによって党内では「輪番リンチ」と新聞に書かれた陰惨なリンチ事件が続発した。

当時、コミンレルンはレーニンによる党規律の基本方針を指令していた。それは「我々は労働者に対して切言せざるを得ない。スパイ、官犬、及び裏切り者を殺すことは勿論時として絶対に必要なこともあるが、それにもかかわらず、之を原則とすることは極めて不都合であり、誤謬である」(『赤旗』34年1月17日付)というものである。

スパイや官犬、裏切り者を殺すのは時として絶対に必要だが、それを原則にせず、利用価値があるなら生かせておけ、というもので、殺すことを原則にしている。

 

■査問と称し拷問を繰り返した宮本

このコミンテルン指令に宮本は忠実に従い、スパイの疑いを持った党員を次々と査問していった。宮本が直接、手を下したリンチ事件は2件あったとされる。いずれも33年12月に起こったもので、最初の1件は同12月21日の「大串雅雄惨殺未遂事件」である。

大串は党印刷局でサブキャップだったが、印刷所など16カ所が検索を受けたことから宮本はスパイの嫌疑をかけ、東京都港区赤坂の秘密アジトの地下室に監禁、手足を縛りピストルを突きつけて脅し拷問を加えた。大串は隙を見て逃げ出し、事件が発覚した。

その翌日の同12月22日に起こったのが世を震撼させた「リンチ殺人事件」である。やはりスパイとめぼしをつけた党中央委員の小畑達夫と大泉兼蔵を東京都渋谷区幡ヶ谷のアジトに誘い出し、白状させようと殴る、蹴る、硫酸をかける、錐で刺すなどのリンチを加えた(確定判決文)。生命の危険を感じた小畑が逃亡しようとしたときに殺人事件が起こった。

 その現場で宮本と一緒にリンチに加わった袴田里見は次のように証言している(『週刊新潮』78年2月2日号)。

 「スパイ小畑を殺したのは、宮本である。私はいまはじめて真実を書く。…宮本は、右膝を小畑の背中にのせ、彼自身のかなり重い体重をかけた。さらに、宮本は、両手で小畑の右腕を力いっぱいねじ上げた。ねじ上げたといっても、それは尋常ではなかった。小畑は、終始、大声をあげていたが、宮本は手をゆるめなかった。しかも、小畑の右腕をねじ上げるほど、宮本の全体重をのせた右膝が小畑の背中をますます圧迫した。やがて、ウォーという小畑の断末魔の叫び声が上がった。小畑は宮本のしめ上げに息がつまり、ついに耐えられなくなったのである。小畑はぐったりとしてしまった」

■「古畑鑑定書」がリンチ殺人と明言

こうして宮本は小畑を殺した。彼らは小畑の死体の始末に困り、床下に埋めた。翌34年1月に同じくリンチを受けていた大泉謙蔵がこのアジトから脱出し、事件が発覚。床下から小畑の死体が発見された。

 この状況を当時の東京朝日新聞は「小畑の死体には毛糸のシャツ上下と夏用メリヤスの猿又を着けたのみで、肘を折りまげ死体を上向きにして穴に埋め、頭から紫色のふろ敷をスッポリかけて顔を覆ひ、その上に黒色のオーバーをかけて埋めたものである」(34年1月17日付)と記している。

 小畑の死体解剖部検査記録は「死体顔面前額部、頭部、胸部、上肢、下肢およびその他に大小多数の皮膚変色部、表皮剥脱、皮下出血、筋肉間出血、骨膜下の出血があり、また頭蓋腔内において鶏卵二倍大の脳膜下出血(二十二カ所)」など、陰惨なリンチを受けて死亡したと明記している(立花隆『日本共産党の研究』)。

 この死体を詳しく調べた古畑種基・東京帝国大学教授の「古畑鑑定書」では、暴行と空腹、喝の状態で男子4人に押さえ込まれたための「外傷性虚脱死(外傷性ショック死)」と、死亡原因を特定している。まさにリンチ殺人であった。

 宮本顕治は事件発覚前の33年12月26日に逮捕され、38年10月に予審終結、40年4月から一審公判が始まり、44年12月に大審院で無期懲役の判決が下り、20年5月の上告棄却によって刑が確定した。確定判決は「治安維持法違反、傷害致死、監禁致死、死体遺棄、不法監禁、銃砲火薬類取締法施行規則違反」を認め、無期懲役としたのである。

■共産党の綱領はリンチを正当化

これが宮本顕治による「日共リンチ殺人事件」の概略である。殺人罪は免れたものの、傷害致死罪、監禁致死罪など「人殺し」で無期懲役となったのは紛れもない事実で、決して思想犯だけによる投獄ではなかった。

党綱領は「(戦前の)党の活動には重大な困難があり、つまづきも起こったが、多くの日本共産党員は、迫害や投獄に屈することなく、さまざまな裏切りともたたかい、党の旗を守って活動した。このたたかいで少なからず党員が弾圧のため生命を奪われた」と記し、「裏切りともたたかい」と宮本のリンチ殺人を正当化している。

今、人々は政治家に倫理を問うているが、人殺し犯を政党の党首に戴いてきた共産党ほど破廉恥な党はほかに知らない。その意味で現在の共産党も同罪である。

クョスコニョ    [1] 
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