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  07-08-01 宮本死亡A
 

宮本顕治共産党元議長死去

共産主義終焉を象徴

勝共連合から逃避し敗北し続けた40

 

【ポイント】

 日本共産党の宮本顕治前名誉議長が7月18日、都内の病院で老衰のため死去した。98歳だった。宮本氏は日本の共産主義運動の中心的人物で、本連合は40年間にわたって宮本氏の誤謬を追及してきた。その死は日本における共産主義終焉の一つの象徴と言ってよい。しかしながら、宮本氏による「暴力と独裁」の革命路線は志位―市田体制の日本共産党現執行部に引き継がれており、死してもなお共産党を日本革命へと押しやろうとしている。共産党は宮本氏、さらにはレーニンの呪縛から解放されておらず、わが国にとって危険な団体であることに変わりはない。宮本氏の死去を機に、本連合の40年にわたる宮本共産党との戦いを総括しておこう。

 

【本文】

国際勝共連合は1968年に創設された直後から、宮本氏の率いる日本共産党の誤りを指摘し続け、以来、40年間、宮本氏と戦ってきた。本連合の創立40年(来年4月)を控えたこのときに宮本氏が鬼籍の人となったのは我々にとっても感無量である。生存中に共産主義の間違いを認め、神を知ることができなかったのはこのうえなく遺憾に思う。

本連合が宮本氏に最初に挑んだのは68年から69年にかけて、共産党の教科書である『共産主義読本』をめぐってである。『読本』には共産主義政権を樹立した後の自由なき独裁社会が露骨に描かれており、本連合はそれを暴いたビラを全国で百数十万部を配布した。

これに対して共産党は「狂信とデマの勝共連合」と中傷したものの、『読本』批判には応えられず、同書はついに絶版に追い込まれた。

 

■公開理論戦に恐れ言論抑圧

ついで本連合は72年、共産党に理論戦を行なうことを宣言した。これに恐れた共産党は機関紙『赤旗』(72年2月20日付)に「勝共連合の策動と矛盾」(『赤旗』)と題する記事を掲載、理論戦に応じず中傷に終始した。

おりしも連合赤軍事件が発覚、共産主義の真の姿が露わになったのを受け、本連合は「連合赤軍=日本共産党」「宮本顕治もリンチ殺人」の一大キャンペーンを全国展開、絶頂期にあった共産党の本質を国民に知らしめた。

さらに同年4月、「世界勝共大会」を開催し、12項目にわたる「日本共産党への質問状」を発表、これを宮本委員長(当時)に送付し、公開理論戦を求めた。

これにも共産党は黙殺。ところが、公開戦に意義を見いだした毎日放送テレビ局は本連合と共産党にテレビ討論を要請(同6月22日)したが、宮本委員長はここでも逃避した。結局、共産党抜きで全国放映(同7月21日)されたため、共産党は「反共デマに公器提供」(「赤旗」同7月23日付)などと言論抑圧まがいの暴挙に出て、独裁体質を露わにさせた。

本連合は公開理論戦を全国の共産党地区委員会や大学内の民青(共産党青年組織)に求めたが、彼らはことごとく逃避した。このため下部党員が動揺し、民青からの離脱や12条党員(不活動党員)が続出、共産党の理論戦敗北が明白になったのである。

 

■京都共産府政に終止符打つ

それを押し隠すように宮本委員長は73年、第12回党大会で民主連合政府綱領を発表し、70年代の遅くない時期に民主連合政権を樹立すると息巻いた。だが、国政選挙で後退、頼みの綱の革新自治体も凋落し、共産府政と呼ばれた「蜷川京都府政」を最後の砦として、その死守に全力を挙げようと78年4月の京都府知事選に全国動員を掛けて臨んだ。

これに対して本連合は「宮本は網走に帰れ」との思想新聞キャンペーンを京都府下で展開し、共産党との間で「四条河原の死闘」と称された戦いを繰り広げた。宮本委員長は京都に入り演説を行なおうとしたが、本連合の女性会員らの決死の「網走に帰れ」コールに立ち往生し、ろくに演説もできずに逃げ帰った。知事選では共産党の押す蜷川後継候補が敗北、28年間続いてきた「共産府政」についに終止符が打たれた。

その直後の78年6月、本連合が東京・立川市で宮本委員長の「リンチ殺人」を追及する思想新聞号外を配布したところ、同党立川・昭島地区委員会は配布指し止めの仮処分を申請したため、本連合はこれに受けて立ち、ついに「日共リンチ殺人事件」は裁判所で争われることになった。これが多くの国民の関心を呼んだ本連合と共産党との裁判闘争である。

裁判を通じて本連合は宮本委員長の「リンチ殺人」(傷害致死罪などの確定判決)の証拠を列挙し、また終戦後に「資格回復」したとする確定判決書のウラ書きの欺瞞を暴き、宮本氏にその罪状を素直に認めるよう裁判所に出頭することを求めた。

結局、宮本委員長は証人として出頭することから逃避し続け、88年12月、共産党は自ら起こした仮処分申請そのものを取り下げ、10年裁判は終結。ここでも宮本議長(82年、議長に就任)は敗北したのである。

 

■スパイ防止法の阻止に狂奔

 勝共連合と宮本議長の次なる戦いはスパイ防止法をめぐってである。スパイ防止法制定運動が有識者らによって始められたのは70年代末で、本連合はこの推進役を担って全国で積極的に取り組んできた。その結果、86年末には地方議会で同法制定を求める請願・意見書が全自治体の過半数を上回る28都道府県、1706市町村の1734議会で採択されるに至った。

これを受け自民党はスパイ防止法案を作成、85年6月に国会に上程したが、これに恐れをなしたのは宮本議長である。当時、共産党は「自主独立路線」と言ってもソ連が仕掛けた反核運動に乗り、日本国内でその尖兵と化しており、スパイ防止法によってソ連スパイが摘発されれば、ソ連から支援を受けてきた共産党が致命傷を受けると判断したからだろう。

 そこで共産党は党を挙げてスパイ防止法潰しに乗り出してきた。同党は85年5月、党中央委員会に「国家機密法対策委員会」を設置。またスパイ防止法潰しのために日弁連の左翼弁護士らと結託して反「霊感商法キャンペーン」なるものを作り出し制定運動を展開する本連合を誹謗した。

 また共産党の影響下にある新聞労連は同年7月の第35回定期大会でスパイ防止法案粉砕を決議。また思想的同志と位置づけられる朝日新聞は社を上げてスパイ防止法潰しに動き、86年11月25日朝刊では紙面の半分を埋め尽くして反対特集を組んだ。

 

■ソ連・東欧圏崩壊で孤児に

スパイ防止法は制定されずじまいだったが、この運動とともに勝共運動が全国・草の根化して共産主義の間違いが広く啓蒙され、ソ連や中朝などの対日攻勢が強まった80年代に日本の平和と安全に大きく寄与されたことは特質すべきことだろう。こうした日本の防備が進む中、89年11月、「ベルリンの壁」が崩壊、91年にはソ連が消滅しソ連・東欧圏は共産主義の縄目から70数年を経てついに解放されたのである。

 コミンテルン日本支部として事実上、ソ連によって誕生した日本共産党はこれによって完全に孤児となった。宮本氏はこの時点でマルクス・レーニン主義の誤謬に気付き、共産主義を放棄して日本革命の妄想を捨て去るべきだった。

だが、これに固執し続け、97年に名誉議長に就任して一線を退いた後も、不破―志位体制の共産党、さらには現在の志位―市田体制に継承させ、今なお呪縛し続けている。

共産党が一日も早く、共産主義と宮本氏の呪縛から解放され、真の日本人に立ち返ることを我々は切望する。言うまでもなく、それを目標に勝共運動は継続する。

クョスコニョ    [1] 
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